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2016年映画ベスト10など

 あんまり数を観てないのですが、こういうのは大好きなので今年もベスト10を考えました。いやまあどれだけ観たかなんてどうでもいいですけどね。「今年は100本しか観てなかった~~」とか言うのもどうなんかなって思いますし。これ以上書くとトラブルを起こしそうなので黙って次に行きます。

 

①『或る終焉』

荘厳だが親密で、温かいがどこまで冷たい。お馴染のフィックスしたカメラは自由に体を動かせない終末期患者の身体そのものを表すよう。ティム・ロスエニグマティックで不穏な演技も最高でした。結末に関しては様々な要素を考慮するとここに帰結するしかないように思います。コーマック・マッカーシーの影響が強いかな、とも思いましたが。

②『ハイ・ライズ』

キューブリック×グリーナウェイとでも言うべきこってりした映像、胃にもたれますが大変美味しくいただきました。積み重なった怒りと狂気が暴動に発展していく過程はけっこう説得力があり、カメラアングルや音楽が入るタイミングも個人的なツボ。10年代に生きる日本人ですが70年代イギリスを表すのにABBAを使うのはわりと正しい歴史観(?)という気もします。

③『コップ・カー』

導入の巧みさとか編集のリズムのよさとか子役の演技の引き出し方のうまさとか、がしっかりした基礎力をほどよい「テレ東午後のロードショー」感で包み込んでいるすべてが愛おしい。出来のいいパルプ小説を読んでいる時の幸福感がありました。あとやっぱりケヴィン・ベーコン。しかしこの監督にスパイダーマン撮らせようというマーヴェルの慧眼っぷりもすごいと思います。少年を撮るのが上手いことはこの一作でよく分かりますが。

④『マダム・フローレンス!』

豪奢な世界に閉じ込められた狂人の暴走を、はみ出し者同士が手に手を取って居場所を見つける優しい物語と共存させるスティーヴン・フリアーズの手腕に拍手。温かいバロック映画。労働者にも高級な音楽を、というアメリカのフィクションでは珍しい階級を前景化させるところもフリアーズ。音痴が上手いメリル・ストリープ、芸達者ぶりを役柄に昇華させたヒュー・グラント、両者をしっかり受けとめたサイモン・ヘルバーグとアンサンブルも見事(ただそのぶんレベッカ・ファーガソンの使われ方が精彩を欠いていたのがちと残念)。

⑤『ハドソン川の奇跡

トラウマを抱えた男がそのトラウマの原因となった出来事を何度も反芻することで克服する過程を90分に収めた、正統派なメンタルヘルスドラマ…。どんよりとした天気に三途の川を想起させるハドソン川と、死に惹かれているようで、キャビンアテンダント3人が叫ぶ「ふんばって、頭を下げて!」の力強さとの対比が泣かせます。トム・ハンクスは「偉大なるアメリカ映画」を支えるすげー俳優なんだなと改めて演技力に感嘆しました。女房役アーロン・エッカートの滋味もよし。特にラストの一言。

⑥『人生は小説より奇なり』

ツイッターのフォロイーさんが『東京物語』を引き合いに出してましたが、なんとエレガントな翻案でしょう。家族それぞれの利己心と善意が積み重なり、すれ違っていく様を丁寧に描きながら決して退屈させない手腕もさることながら、すべての人を平等に温かい視線で見る姿勢が素晴らしい。ジョン・リスゴー、アルフレッド・モリーナも名演ですが、「性格のいい杉村春子」とでも言うべきマリサ・トメイもよかったですね。

⑦『ティエリー・トグルドーの憂鬱』

上記作品と重なりますが、登場人物それぞれの利己心と善意が積み重なり、すれ違っていく様を丁寧に描きながら決して退屈させない。そしてこちらの方がより容赦ない。「あなたのためを思っていいますが、この履歴書の書き方はダメです」とか、今年私もガチで言われたのでしばらく動悸が収まりませんでした。人の人生はそれだけで既にサスペンス。そしてたった一回の過ちでその人が積み上げてきたものも文脈も無視され断ち切られるしかないという現実。クソだけれども、生きていくしない諦めに満ちたヴァンサン・ランドーの表情が見事。我が愛しのティム・ロスからカンヌ男優賞を奪った(???)作品ですが、『或る終焉』と本作は通底するものがあるように感じます。

⑧『ブリッジ・オブ・スパイ

繰り返される三すくみ(のっけからの自画像を描くシーンに度肝を抜かれました。よくああいうのがさらりと撮れると思います)のショットがやがてはプロットの三すくみ状態につながるところとか、ポール・トーマス・アンダーソンみたいに「とにかくどうやって撮ったの?」という感じです。最初は→↑のようにすれ違っていたドノヴァンとアベルの視線が別れ際、あの長い橋でやっと→←としっかり互いを見つめ合うショットに泣きました。ちなみに今年のワーストを選ぶとしたら『BFG』です。

⑨『パディントン

丁寧な脚本に真面目な演技。派手さはないけど誠実さはいくらでもある、よいイギリス映画の典型例です。最初はそこまで高く評価はしてなかったんですけど、あの安定感にジワジワと「いいなあ」と心が支配されてきました。それがこの映画の良さだと思います。まるでパディントンのように、気づいたら分かち難い一員となっている。混迷した世の中に対するフワフワ柔らかな一撃。あとデーモン・アルバーンが音楽やってるってのもポイント高いですね…。

⑩『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

いやまあ『キャロル』とか『ブルックリン』とか、これよりやはり完成度は高いだろうと言える作品を今年は観ました。でもねえ、小学生から共に育ったシリーズが、魅力的なキャラクターと一緒に新たに蘇ってきたらねえ。一流の演者たちも決してビッグバジェット映画にありがちな宝の持ち腐れでなく良さを発揮してますから、きちんと作られてます。愛着度でいったら今年ナンバーワン。残り4作への期待も込めてこの位置です。

 

honourable mentions:『ブルーに生まれついて』、『600マイルズ』、『高慢と偏見とゾンビ』、『シング・ストリート』、『ゴーストバスターズ』、『ブルックリン』、『10クローバーフィールドレーン』、『帰ってきたヒトラー』、『マネーモンスター』、『孤独のススメ』、『キャロル』、『ルーム』、『ロブスター』、『リリーのすべて

 

演技賞

レイチェル・ワイズ『グランドフィナーレ』、『ロブスター』

『グランド~』は脚本がどうもな、と感じていたのですが、ワイズがマイケル・ケインをなじる場面は圧巻。そのほとんど直後に観た『ロブスター』で演技の幅広さに改めて舌を巻いたのでした。そりゃダニエル・クレイグも羨ましがるわ(?)

ダニエル・ブリュール『シビル・ウォー』

「熱望、錆びつき、17……」のところでもう充分です。あの内面が荒廃しきった様がにじみ出る表情。

・マイケル・スタールバーグ『スティーヴ・ジョブズ

ファスベンダー氏との演技の相性があまり良くないので「クリスチャン・ベールの方がヤバかったろうな」とかひでえこと考えてたんですが、スタールバーグのさらりとした実在感にやられました。さらりと上手すぎ。SUKI。

・エズラ・ミラー『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

人に愛されず、そして愛を存在意義を求めることはこんなにも痛切で、どす黒くて、恐ろしいことを見事に示した演技。彼とサマンサ・モートン(この人も容赦ない演技しますからね)が並んだ図はお子様も観る映画じゃなかったですね。いやー怖かった。

 

毎年の目標「アジア圏映画をもっと観る」が今年も達成されませんでした。来年も自分の生活のあれこれで許す限りいろんな映画を観たいですね。

「映画界はもっときっちりした女性の役が増えるべき」サイモン・ペグのインタビュー記事翻訳

映画

Twitterで紹介した、サイモン・ペグが映画業界におけるジェンダーの偏りについて提言したインタビュー記事を訳しました。誤訳・誤認多々あると思いますので何かあればコメント欄etc.でご指摘くださいませ。こなれていない訳文ですみません。原文はこちら

 

*****

 映画においてきちんと造形された、存在感のある女性の役は充実しているだろうか?そして女性が中心に位置づけられた*1映画もそうだろうか?これはハリウッドの中心人物たちが相当うんざりしながら何年も訴えてきた問題の一部である。去年のアカデミー賞受賞スピーチで、ケイト・ブランシェットは女性が話の中心にいる映画が増える必要性があると明言した。「観客はそういうのが観たいと思ってるし、実際、儲かりますよ」と彼女は言った。「世界は回っているんですよ、皆さん」

 しかしジェンダーによるギャラの格差やスター女優の差別といった、毎度お馴染の問題に着手し始めた業界において、発言しているのは女性だけではないと知るのは喜ばしいことだ。カルト人気の高い『SPACED~俺たちルームシェアリング~』やコルネット・トリロジーだけでなく、ハリウッド人気シリーズ『ミッション・イッポッシブル』や『スター・トレック』にも出演したスター、サイモン・ペグも、映画においてリアルな女性像が反映されていないという懸念を口にした。

 ペグ曰く、映画業界はよく練られた女性キャラクターの欠如に気づいてきているが、問題に迅速に対応していない。「個人的には映画の中での女性の存在感は薄いと思う」とペグは語る。「きちんと書かれた女性キャラクターが不足していると気づいた後に変化が起こるといいんだけどね」

 ペグによれば映画のジャンルがジェンダーの枠で分けられることも問題の一つだ。彼はロマンティックコメディを例に挙げ、このジャンルは多くの人に「女性向け」だという誤った認識をされてきたとし、人々は「女の子向け」だからと避けるのではなく女性によって作られた映画を観に行くべきだと言う。

 「ロマンティックコメディは男と女――いや男と男でも女と女でも――の間の変化する関係を描くものなんだ。何についての映画にもよるけど。『あれは女の子向けだから観に行きたくないよ』なんてのは大笑いできるチャンスを台無しにしてるよ」

 ペグ曰くこのことが新作ロマンティックコメディMan Upへの出演を決めた理由の一つだった。彼は脚本を担当したテス・モリスが「ありのままでごまかしのない」女性キャラクターを書いたことを喜んでいる。

 「たいていの男が書いたロマコメでは、女性キャラクターは手の届かないマニックピクシードリームガール*2になるんだ、あの女の子はこうあるべきだっていう男の幻想…。僕はテスの表現が好きだし、彼女があんなにもはっきりした個性を持つ女性キャラクター(レイク・ベル演じるナンシー)を書いたってことも嬉しい。手を加えられてない感じがする。彼女は男の幻想じゃないんだ」

 この問題はかつて自身で創作する際に直面したことでもあるとペグは認めた。脚本と主演を務めた『ショーン・オブ・ザ・デッド』では、彼が演じるショーンは押し寄せるゾンビの群れと闘いつつ恋人との関係を修復することにも格闘している。ペグとエドガー・ライトがリズ・アシュフィールド演じるリズの役を書く際に、彼女を好意的かつ強く書こうとしたが、説得力のあるキャラクターにするため「異なるジェンダーの奥深くに入りこむこと」に苦労したという。

 「僕とエドガーはいつも俺たちの弱点は女性描写だなって言ってる。思えば『ショーン・オブ・ザ・デッド』ではリズを理性の声、足手まとい、エドに対する障害物にならないよう苦心したな。結局、『ショーン・オブ・ザ・デッド』はショーンとリズじゃなくてショーンとエドのロマンスになったしね」

*1:訳注:原文は"niche"。個体・個人の占める位置を指すがニッチ市場にもかけていると思われる

*2:日本語で書かれたまとまった記事が無いのですが、『(500日)のサマー』とか『エターナル・サンシャイン』のヒロインみたいな女性キャラ。てかエドガー・ライトの『スコット・ピルグリム』のヒロインもアレでは…。英語版Wiki

Manic Pixie Dream Girl - Wikipedia, the free encyclopedia

我らの魂は進撃する:『グローリー/明日への行進』感想

映画

 キング牧師を主役に据えた初の長編映画で、黒人の選挙権獲得のために行われた「セルマの行進」あるいは「血の日曜日事件」を題材にしています。監督はこれが長編2作目の黒人女性エヴァ・デュヴァネイ。本年度アカデミー賞主題歌賞受賞。

 本作はキング牧師がいかにデモ活動であるセルマの行進を勧めていったかという裏側を書いているのですが、合間合間にキング牧師を徹底的に監視し盗聴までしたFBIによる記録が挟まれ、ナラティヴを進めます。ナラティヴの推進力を持つという点でFBIは物語の上でも権力を持つこととなり、同時に私達も含む多くの人々が持つキング牧師の一般的なイメージを提供します。これは途中に出てくる新聞やテレビ報道にも同じことが言えるでしょう。

 しかし、映画が克明に映すのは聴衆の心をつかんでも妻の心はつかめず、マルコムXに敵愾心を燃やしプライドとエゴもある一介の男としてのキング牧師です。FBIの記録に代表される公の彼の姿――それは冒頭がノーベル平和賞授賞式で始まることでも示唆されています――にぶつけるようにプライヴェートな姿が提示されますが、それはどちらも真であり偽であるでしょう。そもそも本作でも、法律を変えるためにキング牧師はセルマでのデモ行進を企画し、人々の注目を集めるために「ドラマを作る」と公言しています。自然発生的にデモが起きるのではなく、目的のために計算をしシナリオを作り上げる。デモ活動も一つのフィクションであり、それを同じフィクションである映画に映す。どんなに努力しても伝記映画は対象となる人物の真実の姿を映すことは出来ず、フィクションとしかなり得ません。本作はその形式において伝記映画の限界あるいは宿命に言及し、そのことによってどういう立場を取るかを表明しています。徹底的に「ドラマを作る」のです。

 このドラマ性の強調は画面作りにおいても表されています。ノーベル賞授賞式会場や、当時のジョンソン大統領そしてアラバマ州知事ジョージ・ウォレスが出る場面、特にホワイトハウス――その名の通りですが――など白人のいる場所は白を基調にし、硬質な質感でライティングが強烈に当ります。一方セルマの教会や酒場など黒人たちが集まる場は、黒や茶を基調にしクリーミーで温かみのある画面になっています。こうした画面の対比と同じくらいに、白人と黒人の善悪の立場もくっきり分かれています。もちろん行進に参加した白人も多くいたのですが、デモを阻止しようとする大統領をはじめ黒人を迫害する白人の姿がこれでもかと描かれます。

 こうした明確な二項対立は、現代において単純化しすぎ、リベラルに過ぎると批判されるかもしれません。私も普段は善と悪をはっきり分ける描写は好みません。しかし、当時の黒人たちはそもそも憲法で保障されていたはずの基本的人権すら守られていなかったのです。選挙権を要求するという、当たり前の権利のためにこんな大がかりなことをしなければならないほど状況が不公平だったのに、中立的視点はこの際どれほど意味を成すでしょうか。分かりやすい善悪の分け方に違和感を覚えたとすれば、それは当時の非対称性や不均衡を炙り出すきっかけとなるのではないでしょうか。ホワイトトラッシュの問題もここでは出てくるのですが、キング牧師がクライマックスの演説の中で彼らを生み出すのは権力を持つ金持ちの白人たちであり、だのに黒人たちにその責任を押し付けていると指摘しているんですね。これは言葉を近頃話題に出ている「弱者男性」と「フェミニスト/高学歴女性」に替えてみるとよく分かるというか、同じ問題は今でもゴロゴロあることに気づかされます。

 演説の話題が出ましたが、キング牧師を演じるデイヴィッド・オイェロウォの演技は大変素晴らしく、演説シーンは何度も立ち上がって拍手をしそうになりました。クライマックスの今ここに神が降り立つような高揚感といったら。公式サイトによると7年間役作りをしたそうで、その成果が全編にみなぎっています。

 画面作りの話をしましたが、とにかくこの映画は撮影が本当に美しいです。描かれているのは辛い現実なのですが、撮影の見事さがより一層残酷さを際立たせています。エモーショナルな編集も素晴らしく、だれることがありません。エヴァ・デュヴァネイはこれが長編2作目ですが既に巨匠の風格であり、これからが楽しみでなりません。本当にオイエロウォと彼女がアカデミー賞に無視されたのが謎で謎で、何でブラッドリー・クーパーとかが入っちゃうんでしょうかね(突然のdis)。

 『シンドラーのリスト』の際に作家の佐藤亜紀が指摘していたと思いますが、『シンドラー』と同様『グローリー/明日への行進』も、歴史に埋もれ失われた個人の顔を取り戻す映画だと思います。エンドロールは主要な役者名の後ろにそれぞれ役の映像が映るのですが、この演出も体制的な暴力にさらされ個人としての尊厳を奪われた黒人たちに、今こうして顔と肉体と尊厳を与えようとしているのだろうと感じました。

 最後に「ジョン・ブラウンの体(屍と訳されることも)」という歌を紹介します。元は南北戦争での北軍兵士について歌ったものですが、後に1861年にウィリアム・パットンが同名の奴隷廃止運動家に寄せて新たなヴァージョンを作りました。運動家の方のブラウンは暴力的行為もいとわなかったらしくキング牧師とは思想が異なりますが、歌詞に共鳴する点がありますし、クライマックスでキング牧師が高らかに引用するヨハネの黙示録に影響された内容なので。最初と最後の箇所を掲載します(訳は私訳)。

Old John Brown’s body lies moldering in the grave,
While weep the sons of bondage whom he ventured all to save;
But tho he lost his life while struggling for the slave,
His soul is marching on.

ジョン・ブラウンの体は墓の下で朽ちていく
彼が救おうとした全ての囚われた者たちの子孫が泣いているあいだに
奴隷のために苦闘した最中に彼は命を落としたが
彼の魂は進撃する

Ye soldiers of Freedom, then strike, while strike ye may,
The death blow of oppression in a better time and way,
For the dawn of old John Brown has brightened into day,
And his soul is marching on.

お前たち自由の闘士たちよ、打て、そして打つのだ
より良い時代には抑制への致命的な攻撃がより良い方法だ
ジョン・ブラウンが光をもたらした夜明けのために
そして彼の魂は進撃する

映画短評『Mommy』&『サンドラの週末』(ネタバレあり)

映画

 カンヌ映画祭の翌日に去年のコンペティションに出品された作品を二つ観てきました。どちらもマイノリティの人々が社会の理不尽なシステムに翻弄されながらも、個人としての尊厳を守り抜こうとする姿を描く点で共通していると思います。両作品、特に『サンドラの週末』は結末をはっきり書いているのでご注意ください。

 

~不思議な壁を壊して『Mommy』~

 今最も勢いのある監督グザヴィエ・ドランの最新作で、去年のカンヌの審査員賞受賞作。シングルマザーのダイアンは、ADHDを持つ息子スティーヴが問題を起こしたために二人でまた暮らすことになります。職もなく息子との関係にも悩むダイアンでしたが、ひょんなことから隣人で吃音で話すカイラが彼女たちの生活に関わることになります。

 映画のほとんどが1:1という非常に狭い特殊な画角になっているのですが、これはADHDの人の視野を表しているのではないかと考えました。注意欠陥・多動性障害と呼ばれる通り大まかに言えば集中したり物事を順番に行うのが困難だったりするのですが、身内にもADHDがいるので感じるのは、物事を全体を通して大きく見るのも難しいということです。本作でもスティーヴが3人以上で話していて途中で割り込んだり逆に誰かが介入するのを極端に嫌がるのですが、注意が多方向に向くため処理できる情報が限られてくるんですね。凄く嫌な言い方なのですがいわばどうしても「視野が狭」くなる。そこまで言わなくとも、ADHDではない人とは物事の見方がかなり異なるということをこの画角で表していると思われます。

 そしてもっと単純に考えればこの画角は、シングルマザー・発達障害吃音といった社会の中ではマイノリティに振り分けられてしまう人々が感じる世界の窮屈さを表現しているでしょう。でも、そんな彼らが手を取り合い寄り添って生きていき、希望や幸福や世界に対する自信を感じた時、画角が全画面に広がります(しかも画面が広がる時にスティーヴがちゃんと手をぐいっと横に伸ばすんです)。この時にかかるのがオアシスの「ワンダーウォール」で、人気曲ですしオアシス自体も映画で何回か使われてますが、これが史上最高の使い方でしょう。『モーニング・グローリー』を聴き込んだ方なら「ワンダーウォール」が咳払いで始まるのはお馴染ですけども、その元の音にスティーヴの照れ隠しでする咳払いを重ねるというにくい演出で、10年前にオアシス狂いだった(その後ブラーに鞍替え)自分は劇場でボロ泣きしました。個人の思い入れは置いといてもここは本作のベストシーンと断言できます。

 主人公たちが困難に直面するときは1:1、幸福な姿が描かれている時は画角が広がるのですが、その困難の描き方に誠実さがにじみ出ていて大変好感が持てます。『わたしはロランス』でもマイノリティの当事者とその身内を描いて「あなたが大変なのも分かるけどこっちだって大変なんだよ」という現実をしっかり見せてましたが、『Mommy』でも家族の愛情でどうにかしようというのではなく、理不尽な現実に振り回されながらもその中でどうやって自律しながら個人の幸せと尊厳を持つかを模索しています。ラストは全画面なので「幸福」の方に数えられますが、『ライ麦畑で捕まえて』や『大人は判ってくれない』の伝統に連なるどこか不安定さも残るもので、そもそも社会の強制的な枠組みの中であえて選んだものなので、本当に「幸福」と言い切れるのかという問題を突きつけます。

 構成自体はベタベタなメロドラマで、『わたしはロランス』などでもそういう作りを平然と正面切って撮れるのがドランの強みだと思いますが、だいたい「特殊」な人々を取り上げたら奇をてらった撮り方をしなければならないのかという疑問も出てくるわけで、美意識と自意識に淫しない問題意識と誠実さがこの作品を素晴らしいものにしています。

 ダイアン役のアンヌ・ドルヴァル、スティーヴ役のアントワン=オリヴィエ・ピロンも良かったですが、ドルヴァルと同じ常連のスザンヌ・クレマンが見事な名演。


Oasis - Wonderwall - YouTube

 

~コミューンを作ろう『サンドラの週末』~

 こちらもカンヌの常連ダルデンヌ兄弟によるコンペ出品作。鬱病で休職していたサンドラはいよいよ復帰というところで職場から解雇を告げられます。復職するには同僚の過半数がボーナスを諦めることに同意しなければならない。生活が懸かったサンドラは、病を抱えながら週末を費やし同僚16人の説得に乗り出します。

 恥ずかしながら初ダルデンヌ。こういう撮り方をするんだろうなとあらかじめ予想していたらほぼその通りで、そしてリアリズムが強い作風はそこまで好みではないのですが、観てよかったです。

 非常に共産主義的な作品だと思いました。結局は資本主義に勝つことは出来ないのですが。生活が苦しくボーナスを選ぶ同僚が続出してもサンドラに味方する人は現れるのですが、その中にアラブ系やアフリカ系の人もいます(ダルデンヌ兄弟ベルギーの人ですが舞台はフランスかと思います)。夫との離婚を決意しサンドラ派に回る女性も登場します。いわば彼らも、鬱病であるサンドラとはまた違った面で「社会的弱者」の側になってしまう人々です。そんな彼らがサンドラを介して一つにまとまる。

 復帰できるとなっても鬱病に「完治」という概念は無いので、急な苦境にサンドラの精神状態はまた不安定になります。マリオン・コティヤールのニューロティックな表情はサンドラの苦しさそして希望を取り戻す様子を完璧に伝えていて、『エヴァの告白』でも思いましたがコティヤールは表情筋をほとんど動かさずとも陰影に富む素晴らしい演技をする。そんな彼女も夫マニュのたゆまぬサポート(この夫が出来すぎなくらいいいキャラで、精神疾患者とその家族の関係の理想形が打ち出されています)により、組織を動かすことに成功します。完全な勝利を手にすることは出来ないけれど、泣いてばかりいた彼女はラストに誇らしげに笑います。職は無くとも個人の尊厳を取り戻すことに成功したのです。そして、自分を支えてくれる仲間を作ることにも。

 一人の女性の物語ではあるのですが、より大きな主眼はその後ろにある仲間あるいはコミュニティにあるように感じます。公式サイトのインタビュー

http://www.bitters.co.jp/sandra/director.htmlによれば作品が誕生したきっかけは苦しいヨーロッパの経済状況にありました。誰もが厳しい環境にある中(本当の悪人は誰もいません、強いて言えばあの主任を辞めさせろよと思いましたが)、独り身の女性といった人々は更に周縁へと追いやられてしまいます。そうした人々を含む、サンドラに賛成した8人は相手を思いやり、互いに助け合い団結する――『サンドラの週末』は新しい形のコミューンの誕生も描いているのです。個人と共同体の関係性を改めて考えてみた作品と言えるでしょう。

 本作で結構驚いたのが、サンドラにきつい言葉を投げかける人も出てくるのですが、彼女の鬱病を「甘え」という人は誰もいないことです。日本は精神疾患に本当に厳しくて、私もリアル友人に「鬱病は甘えと思っちゃう」と言われたことがあります(彼女たちは私が精神疾患を持つことを知らなかったのですが、目の前の誰かがそういう可能性があることを考えずに発言しちゃう時点で、ねぇ)。人身事故も単なる迷惑行為としてしか受け取られない今の日本では本作のような話さえファンタジーになってしまうのではないかと、鑑賞後は少し暗い気分になりました。ただ映画自体は大変良いものです。

映画短評『インヒアレント・ヴァイス』&『パレードへようこそ』

映画

『インヒアレント・ヴァイス』

 本国の評を見ると『ビッグ・リボウスキ』、『ロング・グッドバイ』、『チャイナタウン』の名前を見ましたが、個人的にはそこに『キッスで殺せ』を付け加えたいです。人物のヘンテコ具合と突拍子のなさ、不可解さはこちらに近いのではないかと。似てる作品を取りあえずあげて悦に浸ればいいってものでもないですが先行するスタイルと内容があるのは明らかで、しかしポール・トーマス・アンダーソンの素晴らしいところは決してデッドコピーに陥ることなく彼だけにしか撮れないスタイルをちゃんと刻んでいるところです。

 そしてそのスタイルの一つが無名の脇役に至るまで役者の撮り方が異常に巧い、ではないかと思います。本作は特に役者の顔を楽しめる作品です。ホアキン・フェニックス、ジョッシュ・ブローリン、ベネチオ・デル・トロが一堂に会する場面は心地よい胃もたれをもたらしますし、オーウェン・ウィルソンもはまり役。個人的にはマーティン・ショートが最高でした(アメリカのコメディは詳しくないのでショートの位置づけをきちんと把握していませんが、もしこれがイギリス映画だったら彼の役はマイケル・ペイリンが演じただろうと思います)。「ジュリア・ロバーツの残念な兄」の印象が強いエリック・ロバーツもそのパルプ顔/70年代顔を思う存分に生かしています。トマス・ピンチョンのカメオも検討を付けたのですが、もし当たっていたとすればやはり彼もかなりの顔面力の持ち主。

 女優陣ももちろん素晴らしい。これからが楽しみすぎる新人キャサリン・ウォーターストンをはじめ、魅力的なナレーションのジョアンナ・ニューサム(ナレーションはとても忠実な映画の中で大きな改変なんですが、これが大変効果的)、リース・ウィザースプーン、マーヤ・ルドルフ、セリーナ・スコット・トーマス(クリスティンの妹!)もいいんですが、個人的なお気に入りはジェイド役のホン・チャウで、アメリカ映画でアジア系女優がこんなにキッチュでキュートに撮られているのもそうそうお目にかかれないよなぁと。お分かりの通り主要キャストが特筆に値します。名前の出てこないFBIの2人組に至るまで。

 筋が支離滅裂なのは単純に考えれば有機的なまとまりを否定したポストモダン的手法とも考えられますが、やはりレイモンド・チャンドラーのオマージュもあるだろうと思います。チャンドラーは狙ってポストモダンの先駆的手法を取ったわけではなく、プロットを練るのが物凄く苦手だっただけらしいのですが。*1プロットにまとまりがないからこそ、夢かうつつか分からないドクのトリップした感覚を追体験できます。

 タイトルの意味は作中でも説明があるように「内在する欠陥」。卵が扱いに気をつけないと割れてしまうように、製品が本来持つネガティヴな性質を指す保険用語です。これがケネディ暗殺以後陰謀論が噴出したアメリカ全体を指しているのは明らかで、ドクは拡大する欠陥を止めることは出来ず飲み込まれてしまいますが、彼がシャスタといる場面は、腐敗した世界の最後の砦となるかのように、ヴィルモス・ジグモンドも念頭に置いたであろうロバート・エルスウィットの完璧な撮影でもって、美しいソフトフォーカスで彩られています。ちなみに原作で最後に登場するのは「ゴッド・オンリー・ノウズ」。もし『ブギーナイツ』で使用していなければ、本作でも流れていたでしょう。作中の時代設定も原作通りに1970年、監督の生まれた年。こうした一致だけでも、この物語を映像化するにはポール・トーマス・アンダーソン以外に考えられないことが分かります。

 

『パレードへようこそ』

 1984-85年のウェールズの炭鉱ストライキストライキ史上最も泥沼化したとされ、サッチャーはその沈静化にフォークランド戦争以上の費用を費やしたそうですが、*2そのストライキLGBT団体がサポートしたという実話の映画化です。

 当初はお互いに無関心だったり偏見があるのですが、もちろん我々が予想する通り、そうした誤解は解けていきます。LGSM(サポート団体の名前)のメンバーは自身のセクシャリティゆえ家族と不仲だったり疎遠だったりして根無し草状態なのですが、イギリス最後のコミュニティを保持し続けたウェールズ炭鉱町ディライスの人々はそんな彼らに第二のホームを与えます。そして、ディライスの人々も、LGSMとの交流の中で押し殺していた「本当の自分」を目覚めさせます。

 と、こうまとめると若干ありきたりな話にも思えますし、「皆いい人過ぎる」といった批判も見かけたのですが(悪役もちゃんと出てきますけどね)、むしろLGBT映画で安心して見れる、明るく楽しい作品を作る意義は大きいのではないかと思います(設定が結構似ている『キンキーブーツ』もそういう映画でした)。

 作中で一夜限りのチャリティーライヴが登場します。アーティストを多数呼んで、一晩中みなで踊り狂い、騒ぎまくる。老若男女も、LGBTもそうでない人も関係なく。たとえばストーンウォールもそうなのですが、ゲイが集まるクラブの意義について、「辛い日常をその時だけは忘れ、キラキラした世界に身を投じる」ことはよく指摘されます。本作もそうです。差別やストライキの泥沼化も描かれはしますが、それよりも人と人が偏見を乗り越えお互いを尊重し、押し殺した自分を発露し、笑い、踊る姿の方が強調されています。それでいいのです。辛い現実はいくらでもある。しかしこの映画を観ている2時間の間だけは、大いに笑って大いに泣いて(クライマックスの尊いこと尊いこと)、善意溢れる人々の行為に安心できる。ディスコクラブでの狂乱に身を投じるように。

 映画を観て真面目なことを考えていても同時によこしまなことを考える人間なのですが、本作でのアンドリュー・スコットは色気がダダ漏れていて凄いです。ファンの方は当然観に行くでしょうがとりあえず必見です。もちろんビル・ナイパディ・コンシダインイメルダ・スタントンらも流石の演技で、ステフ役のフェイ・マーセイもよかったなぁ。素敵なオネェジェフ君はフォックス家の一員だそうで。イギリスのコッポラ家か…。マーク役のベン・シュネツァーはビリー・ジョー・アームストロングに似てるなと思っていたらアメリカ人でした。コックニー訛りが大変見事なのでビックリしたら演劇を学んだのはロンドンだそうです。

 ストライキの顛末を考えると簡単には言えないですが、しかしこんなにいい気分になれる映画もそうそうないのでとてもお勧めです。

 しかし疑問点もなくは無いので、以下にそれを書き出してみます。映画の詳細に触れるので未見の方はご留意ください。

 

 

 

①マークが共産党員というのを隠していいのか?

 LGSMの創立者であるマークが炭鉱夫たちをサポートするのも随分唐突だな、と思ったのですが共産党員であるという事実*3を知り納得しました。野次で「アカめ!」と言われたり部屋にも党の飾りが映っているらしいのですが、あえて伏せてる印象が拭えなく、個人の主義信条の自由を尊重してないのでは、とも。

②登場人物が白人のみ

 ディライスに関してはしょうがないと思うのですが、ロンドンの方で非白人種が一人もメインキャラに出てこないのは、21世紀の、しかもこうしたテーマの映画としては違和感。というのも、80年代はインドやパキスタン系を中心とした「多文化主義」の時代でもあるからです*4。ゲイと移民問題を扱った名作に『マイ・ビューティフル・ランドレット』がありますね。ただ同じく多様性の重要性を謳う『ワールズ・エンド』も主要登場人物がヘテロの白人男性ばかりだったので*5、イギリスにおける多様性のモデルはどこか違うところにあるのかも、という気はします。

③ジョーの母親について

 本作のオリジナルキャラクターであるジョーは、家族に製菓教室にいくと偽りLGSMの活動に参加します。結局バレてしまうのですが、その時に母親からかつてクローゼットのゲイであったことを明かされます。ゲイと判明した際の周囲のバッシングの恐ろしさ説き母親はジョーにセクシャリティを隠すよう求めるのですが、ジョーは家族と縁を切り堂々とゲイとして生きることを決めます。理不尽な苦労を強いられた人が下の世代に理不尽さを強要することはありますし、また自分を偽らない方がいいに決まってるのですが、しかしあまりにジョーの母親が救われなさすぎる。一番の違いは彼女が女性ということで、LGSMでもゲイとレズビアンの格差が扱われていますが、60年代レズビアンの女性がそれを表明して生きていく困難さは凄まじいものだったろうし、異性愛の結婚制度に逃げを求めたとしても、簡単に責められるものなのでしょうか。ディライスでのゲイに反発する母親もそうですが、この作品では何故か母親が「悪」です(唯一の救いはアンドリュー・スコットの母ですが、彼女もかつては「悪」でした)。ご都合主義でもいいから、ジョーと母親がセクシャリティを発露して共に家を出ていく、という結末の方がよかったなぁ。

*1:脚本で関わった映画の撮影中、監督だか主演俳優だかに「運転手を殺したのは誰だ?」と尋ねられて「俺にも分からん」と返したという逸話が残っています

*2:河野真太郎「イギリスの解体」川端康雄他編『愛と戦いのイギリス文化史:1951-2010年』東京:慶應義塾大学出版会、2011年。pp.362-63

*3:

Mark Ashton - Wikipedia, the free encyclopedia

*4:中井亜佐子「多文化主義、(新)自由主義テロリズム――ハニフ・クレイシと現代英国の文化闘争」『愛と戦いのイギリス文化史:1951-2010年』pp.369-73

*5:『ワールズ・エンド』はスタバ化=アメリカ化を否定する内容で、人種のバランスに配慮してキャスティングするというのはまさにアメリカ的発想ですよね。もしかしたらそれへのアンチテーゼかもしれませんが…。まぁでもやはり資質の問題か

芸術について語るときに彼らの語るべきでないこと:『バードマン、あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』感想【ややネタバレ】

映画

 今年のアカデミー賞で作品賞を含む4部門を受賞した話題作。スーパーヒーロー映画『バードマン』で名を馳せた俳優リーガン・トムソンは、落ち目となった今ブロードウェイで米文学の巨匠レイモンド・カーヴァーの短編を舞台化することでキャリア復帰を図ります。しかし予期せぬアクシデントで共演者の交代を迫られ、人気・実力ともにトップのマイク・シャイナーを呼び寄せますが…。

 長文を費やすのでこのブログで映画を取り上げる際は基本的に褒めてる方向でいくのですが、今回はそうではありません。いや、いい映画ではあるんです。アントニオ・サンチェスのドラムによる音楽はライヴ感を増してクールだし、エマニュエル・ルベツキのワンカット技法は洗練の極みに達しています。演技陣だって申し分なく、マイケル・キートンエマ・ストーンもいいのですが何といってもマイク役のエドワード・ノートンが素晴らしい。マイクは批評家にも観客にも愛される才能ある俳優ですが性格に難ありで、自身のメソッド演技を突き詰めるあまり周囲を容赦なく振り回します。落ち目のヒーロー役者を演じるキートン同様、恐らくマイクのキャラは演者のイメージ(気難しくて注文が多い、でも演技は抜群)も加味されていて、ノートンはその要望にばっちり応えなおかつカリスマ性で人を惹きつけます。マイクが舞台をかき回す前半は本当に最高で、個人的にハリウッド俳優と本格メソッド俳優の対立で話が進んでいたら今年のベスト映画に入っていただろうと思います。

 しかしこの映画はテーマの扱い方に疑問が残ります。基本的な軸はハリウッド大作俳優とブロードウェイ舞台が表すように「大衆vs.芸術」とまとめられるでしょう。とはいっても、冒頭でリーガンが「まともな役者はみんなアメコミ映画に出てる」と漏らすように大衆向け作品と「本格的な映画」の境界線は日に日に薄まっていってるし(そんなん『スター・ウォーズ』のアレック・ギネスとか『スーパーマン』のジーン・ハックマンとか、昔から例を挙げることはいくらでもできるとは思うんですが)、また本作のキーとなるレイモンド・カーヴァー自体も「大衆と芸術」の区分が曖昧であることを象徴しています。彼はブルーカラーの出身で(映画でマイクが日焼けするのは屋外労働に晒された肌、いわゆるレッドネックを再現するためですが、カーヴァーもそうした一人です)、自らと同じような階級の人々の生活をミニマリズムと呼ばれる淡白な筆致で描き、文壇に衝撃を与えました。生前から大作家とは認められていましたが庶民の側に立つ作家と言えるでしょう。しかしリーガンとマイクが事あるごとに「俺のカーヴァー」を語るようにヒップな権威付けをしてくれるアイコンであり、極めつけはリーガンの娘サムが「カーヴァーの舞台を観に行くのは金持ちの老人ばかり」とぶちます。市井の人々を見つめ続けたカーヴァーがハイブラウな文化の象徴!本国ではホントに村上春樹みたいな扱いなんだなぁ…と思いました。いや実際は分からないのですが。

 なんですけど『バードマン』では「大衆vs.芸術」の区分は厳然と存在します。というかリーガンがマイクや演劇評論家タビサ・ディッキンソンから散々馬鹿にされるように、芸術が大衆を見下します。「大衆vs.芸術」は「人々に愛されて記憶に残りづづけるかvs.人々からは愛されなくても批評家に絶賛されるか」とも言い換えられ、「人々に愛され記憶されるか」の端的な装置として出てくるのがネット、SNSです。*1。サム曰く「ブログもTwitterFacebookもやっていないパパは存在しないも同然」なので、リーガンはハリウッドとブロードウェイだけでなくデジタルネイティヴとそれ以外の狭間でもアイデンティティが脅かされますところが芸術側に属するはずのマイクは「俺の勃起は5万回再生されて舞台は話題だ!」とリーガンに得意げに言い放ち(どういうことかは劇場でご確認ください)、彼の方がネットの威力を熟知してるし使いこなしていることが示唆されているのです。一方、リーガンはネットでマイク以上の話題にはなりますが自身はタッチせず、管理は娘に託します。

 この作品は一応ハッピーエンドとして見なせます。物語をまとめますとリーガンは人々に愛され記憶され、批評家からの絶賛も勝ち取ります。問題なのはネットとの距離感からも分かるように、リーガンの方は大衆をちっとも愛していない、ということです。観客と演者あるいは製作者の関係が一方的。彼は家族への仕打ちを後悔はするけれど少なくとも役者としてはかなりのエゴイスト。役者なんてそういうものでしょうしそれでもいいんですが、それをヒロイックにいい話としてまとめられても…。こういう中途半端さなのでアメコミ映画に代表されるハリウッド大作への情熱もなく、ただ利用してるという印象で、それはカーヴァーやブロードウェイに始まる演劇に対しても同じです。

 愛が無いからダメ、という感傷的な話で終わらせたいわけではありません。愛が無い代わりにハリウッドやブロードウェイや何もかもを笑い飛ばす気概も毒も後半に行くにつれどんどん薄れ、エゴイスティックな話を一人の男の再生譚としてまとめたら演劇にまつわる芸術分野が体よく消費された、という感じです。アルトマンのように撮れとは勿論言いませんが、この問題提起なら着地点はアルトマン並に(ノミネートはされても)スルーされるものが求められたのではないでしょうか。既に区分が無効化されているはずの「大衆vs.芸術」に、その視点を固辞する人を描いてもう一度境界を攪乱するわけでもなく中途半端な印象だけ残し、マイクの描写からしてメソッド演技を嗤っているのかと思えば主人公が勝利を獲得するのは究極のメソッド演技によってです。でもそれがブラックな笑いに昇華されているわけでもない。

 演者と批評家の関係も一方的に描かれています。というかこの映画は批評家を芸術側の手先としてしか出していません。リーガンは演劇界のミチコ・カクタニみたいな評論家タビサのメモを見て「陳腐な言葉の羅列だな」みたいなことを言うのですが、それに続けて言う「お前らは血を流さず安全なところからものを言ってるだけだ!(大意)」もすごく陳腐!一般的な観客と批評家はしばしば対立項として見なされますが、一般大衆から見放されても批評家が擁護してその後評価を確立した作品は数多くあるわけで、批評家は「大衆vs.芸術」のどちらかに組み込むのではなくあくまで「創作と批評」の枠で考えられるべき存在だと思うのです。*2というか演劇に対し強烈な矜持とこだわりを持つ評論家はそりゃあいるでしょうが、映画に対してあそこまで偏見を持つ人って今時いるんでしょうか。そして何だよ「スーパーリアリズム」って!恐らくこれは作中に頻出するマジックリアリズムの対立項として登場したのだと思いますが…(でもマジックリアリズムも中途半端だった…)。

 全体的に脱構築なり区分の無効化を図ろうとしているのかもしれないけど中途半端に終わった、という点にモヤモヤするのですが冷静に見返せば意外にきちんと恐ろしいブラックユーモア作品になっているのかもしれません。

 

*1:この映画では愛され記憶されるときに初めて自分の存在が認められる、としています。そこでカーヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」が出てくるわけです。舞台の第2幕は原作にも言及はありますが台詞はほぼ映画オリジナルで、そこに映画のテーマが直接的に表れます。ぜひカーヴァーの短編もあたってみてください。

*2:創作者と批評家の関係を描いた映画では『レミーのおいしいレストラン』と『シェフ:3つ星フードトラック始めました』が印象に残ります。ともに料理を扱っているだけでなく結末も酷似しているんですよね…。なおSNSの使い方は『シェフ』の方が巧みに感じました。イニャリトゥTwitterとか苦手そうだもんなぁ

番犬は太るか死ぬしかない:『アメリカン・スナイパー』感想

映画

 イーストウッドによるイラク戦争の「伝説の狙撃手」と呼ばれたクリス・カイルの半生の映画化です。

 「これは西部劇だ」という意見は以前にちらっと耳にしたのですが、確かに個人的に脳裏をよぎったのは『許されざる者』でした。『許されざる者』はカウボーイのロマンティシズムを引きずり復活させるけどただあるのは苦い後味、というような作品で(少なくとも私はそう解釈してるのですが)、これでイーストウッドは「西部劇に終止符を打った」という評をいくつか目にしました。『アメリカン・スナイパー』のカイルも生粋のテキサスっ子でカウボーイであることを誇りにしているのですが、映画全体がもう西部劇は作れないと叫んでいるかのようなんですね。PTSDに悩まされた彼が殺される直前にカウボーイの真似ごとをしたというのが象徴的すぎます。イーストウッド自身のセルフパロディも入りこんじゃっているようにも思えます。『ジャージー・ボーイズ』で自らの出演作を劇中に登場させたように。なぜ20年以上も経って似たようなテーマを繰り返すのか、とは考えたのですが、同じくテキサス出身であるブッシュもある種カウボーイ的ヒロイズムでもって開戦したとも考えられるので、それへの批評かな、とふと思いました。

 カイルはイラク人を蛮族のように扱い、100人以上殺しても国と仲間/家族のためで後悔してないと明言するような男ですが(しかしこれも本心から言ってるのかわからない演出をされています。クーパーの目が完全に死んでいるので)、彼個人の気質にその責を求めてはいません。カイルがなぜ祖国や身内への義務感を強く持っているのかと言えば、幼い頃に父親から「羊や狼になるのではなく、狼から羊を守る番犬になれ」と言われたのが根底にあるからです。代々受け継がれる家父長的思想や男性性、風土etc.がアメリカ全体の呪縛としてはっきり示されています。*1またブッシュに話を戻せば、あれは湾岸戦争を始めた父親の行動を反復しているとも言えるので、単にカイル家が特殊だったというわけではないはずです。

 本国では戦争賛美という批判も受けたようですが、単純なヒロイズムに淫していないことは、原作では名前だけしか出てこないというイラク側の狙撃手ムスタファに、顔と家族と過去=歴史を与えたという点からも明らかです。カイルとムスタファは鏡像関係にあるという精神分析的な考察もできますが、少なくともイラク人(ムスタファはシリア人ですが…)も対等に描こうとしていることは見て取れます。

 しかし、敵側もしっかり造形したために、結果として西部劇的構造を生み出す事態も引き起こしています。クライマックスでついにカイルはムスタファを狙撃することに成功するのですが、その時の構図が完璧に西部劇におけるthe goodとthe badの対決なんですね。ムスタファは元々黒っぽい服装なのでますます西部劇の典型的悪役のように見える。そもそもこの映画においてイーストウッドは銃撃や爆発を上手く撮りすぎている。マイケル・ムーアが怒ったのもこの辺なんじゃないかと思うのですが、カイルが次々と人を射殺していく様をドン・シーゲルから学んだであろうタイトさで格好よく見せるために快感すら覚えてしまうのです。クライマックスの対決では更に砂嵐が発生して、エンタメとしてすごく面白い。

 カイルは自分の行為の愛国的正当性に自信を持ってはいますが、家族の存在や仲間の死によって一人の人間としての倫理観にも向き合うわけで、この二つの間の矛盾に引き裂かれていきます。『アメリカン・スナイパー』自体も、イーストウッド自身は間違いだと考えている*2戦争を描いていても、映画として面白くて格好良いものが出来上がってしまう。作品自体も、恐らく戦争映画というジャンル自体が陥るであろう矛盾に突き当たります。

 そうした矛盾が頂点に達すると、最終的には表象不可能性に行き着くのかな、と思いました。砂嵐の中での銃撃戦で、出遅れたカイルは命からがら敵陣より脱出します。その間に銃、そして胸ポケットにいつも入れていた聖書を落とすというこれまた象徴的すぎるショットがあり、それらを砂埃が覆い隠し、画面を真っ白にします。この後カイルは退役し家庭に戻りますが、戦時の記憶を反復しながらひたすら消されたテレビ画面を見つめます。銃声や敵味方の叫び声が彼の記憶を満たしているのに、実際には真っ白な映画のスクリーンや真っ暗なテレビ画面のみで、どんなデバイスも彼の体験を写し取ることは出来ず、クーパーの瞳のような空白あるいは空虚が存在するだけです。

 このがらんどうな状態は、エンドロールの完全無音状態にも通じるように思えます。一応その直前に、カイルの葬儀の様子を実際の映像とモリコーネの音楽を使って感動的に仕上げ、英雄のように扱います。これは遺族もまだ生きており、悲惨な死を遂げた実在の人物に対する配慮だとも思います。まだ彼は歴史上の人物ではないわけですし。が、エンドロールでは音楽が途切れ機械的に文字が流れていく様子は観客を完全に突き放し、何かしらの感情を抱かせることを阻むかのようです。*3

 胃がキリキリするサスペンスの盛り上げ方も相変わらず巧みで、思わずうっとりするような格好よさもあるにも拘わらず、最後は観客を徹底的に突き放すイーストウッドにしか撮れない傑作でした。ブラッドリー・クーパーシエナ・ミラーの演技も大変よかったです。ミラーは「アメリカの理想的なマスキュリニティを体現するも結局は壊れた男に殺されてしまう男の妻」というニッチ過ぎるジャンルを開拓しましたが、彼女の役どころから分かるように『フォックスキャッチャー』と期せずして共通点が多い作品です(ムスタファが元オリンピック選手という設定は思わずあっとなりました)。アメリカという帝国の新たな綻びが顕在化しているのかな、とふと考えました。

*1:この点から言うともっと比較したいのは『父親たちの星条旗』なんですが、なぜか内容をほとんど覚えてないので再見します…まぁ後は『グラン・トリノ』とか…

*2:映画秘宝のインタビューより

*3:カイルが最後どうなったかもテロップ1行で済ませ、つい最近の事件で分かりきってるからそうしたとも考えられますが、どうしても『許されざる者』における主人公の拍子抜けするようなその後をテロップ一つであっさり告げる手法を連想します