私の名前を覚えていて『プロミシング・ヤング・ウーマン』(ネタバレだらけ)

 最初はエリート階級からドロップアウトせざるをえなかった女性の憤懣を解消させる親エリートの映画なのかと思った。そうではなかった。何をしても無罪放免になり輝かしい人生を続けられる特権階級の男(とその階級の構成員となりシステムに絡んでいる女たち)の罪を描くために、主人公キャシーも上流階級の一員なのだ。

 この背景は日本の鑑賞者にもピンとくるはずである。2015年、スタンフォード大学のパーティーで酔っていたシャネル・ミラーさんはレイプされる。犯行は明白だったが、加害者が将来有望な水泳選手であり、多額の保釈金で解放された彼の有罪を立証するのに、彼女は苦闘に満ちた裁判を経ることになる。後に書籍私の名前を知って :シャネル・ミラー,押野 素子|河出書房新社となった有名な事件である。被害者が酔っていた為に落ち度を責められること、相手が有力者のために追及を免れること、そして書籍のタイトルにもなっている通り、誰も被害者の名前を覚えていないことなど、性暴力の理不尽な不均衡が、共通認識として本作でも展開されている。

 実際の事件は被害者であるミラーさんが果敢に立ち向かった。また映画ジャンルとしてのレイプ・リベンジ物は、日本でも徐々に知名度を上げているキャロル・J・クローヴァーのフェミニズム映画批評Men, Women, and Chain saws(https://www.amazon.co.jp/Men-Women-Chain-Saws-Princeton/dp/0691166293/ref=pd_lpo_1?pd_rd_i=0691166293&psc=1)で再評価された"I Spit on Your Grave"を筆頭として代表されるように、レイプ被害者自身が復讐するものが多く、これは被害者が尊厳を取り返す意味でも重要な要素だろう。

 だが本作では被害者ニーナは自殺しており、代わりに親友であったキャシーが復讐する。なぜ被害者自身が語ることなく代弁者が主役なのか?シスターフッドの連帯を表しているのだろうか?こうも考えられる。まず大前提として、被害者がサバイバーとなるその勇気は並外れたものであり、周囲にいる人間は全力でサポートすべきである。しかし、一方であまりに残酷な現実として、傷から回復できないまま被害者が自死に至るケースも実数として多く存在する。そうして立ち上がれなかった彼女たちのことを誰が語るだろうか?記憶するだろうか?外部の人間がサバイバーを称賛する時、それは同時に全ての被害者に人並み以上の強さを持つことを求めていないだろうか?『プロミシング・ヤング・ウーマン』は理不尽な司法・階級システムに埋もれ沈黙を余儀なくされた、平凡で強くもなく歴史に残らない女性のことを語り、そして自身もまた平凡で強くもなく歴史に残らない女性となっていく話なのである。

 リベンジの主人公としてキャシーは実は普通の人間だ。アメコミ映画やビッグスタジオのフランチャイズがエンパワメントと称して提供し続ける何もしなくても男たちよりはるかに賢く武闘にも優れた「強い女たち」のプロダクトではなく、彼女は平均よりは頭が回るが、非情を貫く胆力も、結末が示すように男を跳ねのける腕力もない(尚、その結果本作の暴力性やbadass度も普通となっており、リベラル男性が自分たちの「原罪」を認識しているそぶりとして利用できる程度に受け入れやすいものとなっている。アカデミー賞は結局受け入れやすさの指標としてしか機能していない)。

 不当な司法システムに加担した白人男性弁護士を簡単に赦しすぎだと彼女を責めるなかれ。たいていの人は、罪の意識に苛まれ精神を病んだ悔いている人間を前にして突き放せないほど、ビビッてしまう。あなたが自分なら冷酷になれると思うなら、それは想像の中でなら自分をちょっとヒロイックに設定できるからである。冷徹な復讐の鬼になるには凄まじい精神力と体力がいる。だから学長にも娘は性的に脅かされていないとすぐに種明かしするし、同級生にも同じカラクリを説明する(このエピソードは男性が全て悪く女性は全て被害者とその味方側で分けず、ジェンダーと階級の格差は両方の性が加担している複雑な機構であることを示す点で、有効かは別にしても重要である)し、いい男と再会すれば恋愛もしたい。完全なヒーローじゃなくても当然じゃないか、いくらすぐ男と寝てたとしてもレイプの被害者は被害者であり、完全無欠な落ち度のない被害者を求めるくらいそれは傲慢な要求なのだ。

 ではフィクションにおける完璧なヒーローでないからキャシーは殺されたのだろうか(そもそも前半の私的世直し行動はなんだったのかや、それ以外にも突っ込み所はも生じるが、生きる目的がない人間がどうにか空虚を埋めるためかもしれないし、すべての行動が一部の隙もなく有機的に絡み合うべしというフィクション的に正しい進み方を拒否し、でこぼこした設定に不完全な女性の肯定と捉えられるのだ)。その後の用意周到ぷりを見るに、もしもの為の保険とも読み取れるが、手錠のあっさりした外れ方からしても、徹底的に仕組んだ「自殺」にも解釈できる。ネックレスが表すように魂の片割れであったニーナを失った時点でキャシーには生きる目的が無くなっていることは、「落ちこぼれ」となったキャシーを受け入れられない母親の愚痴からうかがえる。ニーナの両親による彼女を悼むことの拒絶――両親もキャシーが悔いている限り前を向くことを許されないようで遺族として辛いのは当然だ――も拍車をかけたに違いない。更にキャシーには到底受け入れ難い愛を傾けた相手の過去、とそれぞれのエピソード後のキャシーの反応を見てもプロットの中で彼女の選択を導く道筋は整っていた。被害者亡き後、一度不起訴になった事件を掘り起こすことは難しい。ならば絶対的な事件を起こさせて余罪を追及させたなら?性暴力事件では何の効力もないことは既に分かっている(キャシーのフルネームはカサンドラ、予知能力があり予言を周囲に伝えるも、男神の呪いで誰にも信じてもらえなかったギリシャ神話の人物)、殺人くらい重いものでないと…。

 加害者の制裁を私刑に頼らず法の裁きに委ねた本作の正義のバランス感覚を私は評価するが、イギリス人が作った物語を日本人が鑑賞したからそう思えるのだろう。主人公が命を犠牲にしてふがいない司法の起爆剤とならねばならないのは疑問が残るかもしれない。一発でシステムを大転換し、教科書に載りカルチュラルアイコンになり歴史に残る女性フィギュアになれる方がいいだろうし、フィクションはそうした表象を提供すべきとは言える。だが、現実には誰にも記憶に残らず、言葉も残せない「普通の」「平凡な」女性の死屍累々が、栄光への舗道と性的不均衡の舗道の両方に埋まっている。自らは語れないニーナの尊厳を掬い取りつつ、キャシーもまたシステムの瓦礫の一つであるとしたところに、無責任なエンパワメントにしない誠実さを見るのである。それに友人ゲイルにネックレスを託したように、誰か一人だけでも覚えていて語り継いでくれるかもしれない。この映画を観ることでも。