芸術について語るときに彼らの語るべきでないこと:『バードマン、あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』感想【ややネタバレ】

 今年のアカデミー賞で作品賞を含む4部門を受賞した話題作。スーパーヒーロー映画『バードマン』で名を馳せた俳優リーガン・トムソンは、落ち目となった今ブロードウェイで米文学の巨匠レイモンド・カーヴァーの短編を舞台化することでキャリア復帰を図ります。しかし予期せぬアクシデントで共演者の交代を迫られ、人気・実力ともにトップのマイク・シャイナーを呼び寄せますが…。

 長文を費やすのでこのブログで映画を取り上げる際は基本的に褒めてる方向でいくのですが、今回はそうではありません。いや、いい映画ではあるんです。アントニオ・サンチェスのドラムによる音楽はライヴ感を増してクールだし、エマニュエル・ルベツキのワンカット技法は洗練の極みに達しています。演技陣だって申し分なく、マイケル・キートンエマ・ストーンもいいのですが何といってもマイク役のエドワード・ノートンが素晴らしい。マイクは批評家にも観客にも愛される才能ある俳優ですが性格に難ありで、自身のメソッド演技を突き詰めるあまり周囲を容赦なく振り回します。落ち目のヒーロー役者を演じるキートン同様、恐らくマイクのキャラは演者のイメージ(気難しくて注文が多い、でも演技は抜群)も加味されていて、ノートンはその要望にばっちり応えなおかつカリスマ性で人を惹きつけます。マイクが舞台をかき回す前半は本当に最高で、個人的にハリウッド俳優と本格メソッド俳優の対立で話が進んでいたら今年のベスト映画に入っていただろうと思います。

 しかしこの映画はテーマの扱い方に疑問が残ります。基本的な軸はハリウッド大作俳優とブロードウェイ舞台が表すように「大衆vs.芸術」とまとめられるでしょう。とはいっても、冒頭でリーガンが「まともな役者はみんなアメコミ映画に出てる」と漏らすように大衆向け作品と「本格的な映画」の境界線は日に日に薄まっていってるし(そんなん『スター・ウォーズ』のアレック・ギネスとか『スーパーマン』のジーン・ハックマンとか、昔から例を挙げることはいくらでもできるとは思うんですが)、また本作のキーとなるレイモンド・カーヴァー自体も「大衆と芸術」の区分が曖昧であることを象徴しています。彼はブルーカラーの出身で(映画でマイクが日焼けするのは屋外労働に晒された肌、いわゆるレッドネックを再現するためですが、カーヴァーもそうした一人です)、自らと同じような階級の人々の生活をミニマリズムと呼ばれる淡白な筆致で描き、文壇に衝撃を与えました。生前から大作家とは認められていましたが庶民の側に立つ作家と言えるでしょう。しかしリーガンとマイクが事あるごとに「俺のカーヴァー」を語るようにヒップな権威付けをしてくれるアイコンであり、極めつけはリーガンの娘サムが「カーヴァーの舞台を観に行くのは金持ちの老人ばかり」とぶちます。市井の人々を見つめ続けたカーヴァーがハイブラウな文化の象徴!本国ではホントに村上春樹みたいな扱いなんだなぁ…と思いました。いや実際は分からないのですが。

 なんですけど『バードマン』では「大衆vs.芸術」の区分は厳然と存在します。というかリーガンがマイクや演劇評論家タビサ・ディッキンソンから散々馬鹿にされるように、芸術が大衆を見下します。「大衆vs.芸術」は「人々に愛されて記憶に残りづづけるかvs.人々からは愛されなくても批評家に絶賛されるか」とも言い換えられ、「人々に愛され記憶されるか」の端的な装置として出てくるのがネット、SNSです。*1。サム曰く「ブログもTwitterFacebookもやっていないパパは存在しないも同然」なので、リーガンはハリウッドとブロードウェイだけでなくデジタルネイティヴとそれ以外の狭間でもアイデンティティが脅かされますところが芸術側に属するはずのマイクは「俺の勃起は5万回再生されて舞台は話題だ!」とリーガンに得意げに言い放ち(どういうことかは劇場でご確認ください)、彼の方がネットの威力を熟知してるし使いこなしていることが示唆されているのです。一方、リーガンはネットでマイク以上の話題にはなりますが自身はタッチせず、管理は娘に託します。

 この作品は一応ハッピーエンドとして見なせます。物語をまとめますとリーガンは人々に愛され記憶され、批評家からの絶賛も勝ち取ります。問題なのはネットとの距離感からも分かるように、リーガンの方は大衆をちっとも愛していない、ということです。観客と演者あるいは製作者の関係が一方的。彼は家族への仕打ちを後悔はするけれど少なくとも役者としてはかなりのエゴイスト。役者なんてそういうものでしょうしそれでもいいんですが、それをヒロイックにいい話としてまとめられても…。こういう中途半端さなのでアメコミ映画に代表されるハリウッド大作への情熱もなく、ただ利用してるという印象で、それはカーヴァーやブロードウェイに始まる演劇に対しても同じです。

 愛が無いからダメ、という感傷的な話で終わらせたいわけではありません。愛が無い代わりにハリウッドやブロードウェイや何もかもを笑い飛ばす気概も毒も後半に行くにつれどんどん薄れ、エゴイスティックな話を一人の男の再生譚としてまとめたら演劇にまつわる芸術分野が体よく消費された、という感じです。アルトマンのように撮れとは勿論言いませんが、この問題提起なら着地点はアルトマン並に(ノミネートはされても)スルーされるものが求められたのではないでしょうか。既に区分が無効化されているはずの「大衆vs.芸術」に、その視点を固辞する人を描いてもう一度境界を攪乱するわけでもなく中途半端な印象だけ残し、マイクの描写からしてメソッド演技を嗤っているのかと思えば主人公が勝利を獲得するのは究極のメソッド演技によってです。でもそれがブラックな笑いに昇華されているわけでもない。

 演者と批評家の関係も一方的に描かれています。というかこの映画は批評家を芸術側の手先としてしか出していません。リーガンは演劇界のミチコ・カクタニみたいな評論家タビサのメモを見て「陳腐な言葉の羅列だな」みたいなことを言うのですが、それに続けて言う「お前らは血を流さず安全なところからものを言ってるだけだ!(大意)」もすごく陳腐!一般的な観客と批評家はしばしば対立項として見なされますが、一般大衆から見放されても批評家が擁護してその後評価を確立した作品は数多くあるわけで、批評家は「大衆vs.芸術」のどちらかに組み込むのではなくあくまで「創作と批評」の枠で考えられるべき存在だと思うのです。*2というか演劇に対し強烈な矜持とこだわりを持つ評論家はそりゃあいるでしょうが、映画に対してあそこまで偏見を持つ人って今時いるんでしょうか。そして何だよ「スーパーリアリズム」って!恐らくこれは作中に頻出するマジックリアリズムの対立項として登場したのだと思いますが…(でもマジックリアリズムも中途半端だった…)。

 全体的に脱構築なり区分の無効化を図ろうとしているのかもしれないけど中途半端に終わった、という点にモヤモヤするのですが冷静に見返せば意外にきちんと恐ろしいブラックユーモア作品になっているのかもしれません。

 

*1:この映画では愛され記憶されるときに初めて自分の存在が認められる、としています。そこでカーヴァーの短編「愛について語るときに我々の語ること」が出てくるわけです。舞台の第2幕は原作にも言及はありますが台詞はほぼ映画オリジナルで、そこに映画のテーマが直接的に表れます。ぜひカーヴァーの短編もあたってみてください。

*2:創作者と批評家の関係を描いた映画では『レミーのおいしいレストラン』と『シェフ:3つ星フードトラック始めました』が印象に残ります。ともに料理を扱っているだけでなく結末も酷似しているんですよね…。なおSNSの使い方は『シェフ』の方が巧みに感じました。イニャリトゥTwitterとか苦手そうだもんなぁ