杉江松恋『海外ミステリー マストリード100』(日経文芸文庫)

今最も売れっ子のミステリ評論家の一人である杉江松恋氏による海外ミステリーのガイドブックです。

これまでに同じ趣旨の本は沢山あるし、各種ランキング本も毎年乱立している中で、改めてガイドブックを出し人々に読んでもらうことに難しさはあると思います。

しかし、この本の一番の魅力は「杉江松恋が選んでいる」という点でしょう。

書評家としての地位を確立している氏が何をマストとしたのか?という興味で手に取ったミステリファンも多いのではないでしょうか(現に私もその一人です)。

もちろん、巧みなミステリ読みが書いているわけですからミステリ初心者にもおススメできるわけです。文庫という媒体もいいですね。

そして実際に紐解いてみると、これは外せないだろうという納得の作品がずらずら並んでいるのですが(個人的にレジナルド・ヒルとキャロル・オコンネルが入っているのが嬉しい)、

クイーンやクリスティ、カー(カーター・ディクスン)ら超有名どころは思わぬ作品が選ばれており、選者の個性をしっかり出してきています。

 解説で該当作品の勘所を知り、同じ作者の読むべき他作品・似たテーマの作品も紹介してくれるという至れり尽くせりな構成にはなっているのです、が、!!

……ページ数が足りない!!!!!

と満足し読み終えつつも感じてしまいました。それを思ったのが実はのっけからのアントニイ・バークリーのページで、

他のバークリー作品を紹介してバークリーという作家の特性を伝えているのですが、唯一『試行錯誤』に触れてないんですね。ノンシリーズでは『殺意』と並び名前が挙がる代表作です。

ここで片手落ちだなぁと思ったわけではなく、杉江氏自身の情報の取捨選択における「試行錯誤」を勝手に感じ取ってしまったのです。限られたページ数の中で、すれっからしも初心者も納得できるよう、自分が考えるバークリーの特性を如何に伝えるか?ということにとても苦心なさったのではと。そしてそれは他の作者のページでも同じでしょう。

だからですね、出版社さんにお願いしたいのは、杉江松恋の大部の評論を読ませてくれ!ということです。

ミステリというのはそれ自体が一つの枠であるジャンルですが、その枠の中でまた「本格」「ハードボイルド」といったいくつものジャンルで区切られています。

 そしてそれぞれの枠の中でいくつかの作品が形成していった「お約束事」が積み重なり、新たな作品を生み出していくわけですが、こういう過程を経ているからこそ、ミステリを論じる時はジャンルを意識し時に特化して読み込んだ時に本質に触れられることがあります。決められたお約束事を如何に前例にない形で巧みに料理するか、あるいは前提であるお約束事をわざと外して効果を上げるか、といった作者の技量が、ミステリ作品の胆であったり、読者が知らず知らず快感を覚えているところだったりするからです(この図式はモダニズム以前の英詩の系譜に似てるんですがまぁそれは別の話)。

しかし、もちろんそれだけで魅力が語られるわけではなく、特殊な形とはいえ紛れもない「小説」なのですから文学史の流れも踏まえるのも必要でしょう。ミステリ用語だけでなく文学全体を分析する際に用いられる用語なり理論なりを当てはめなければ言えないことも多いはずです。

杉江氏は「ガイブン酒場」などでミステリ外の作品も多く読み込み、いわゆる「純文学」の知識も豊富な方ですので、 ミステリ内部にしっかり潜り込むながらも、境界を飛び出した外部の視点をぶつけることによって、立体的なミステリ論を書いてくださるのではないかと勝手に期待しています(一応本書の後半部は杉江氏なりのミステリ史と言えるのですがやはり如何せんページ数が…)。

ちなみに、ジャンルに特化したガイドブックでは、『ミステリ絶対名作201』(新書館)が個人的にベストだと思っているのですが、絶版…。これが出版された時は若手だった川出正樹氏や村上貴史氏もベテランになっているので、お二人を中心に新しく編まれたのも読みたいですね。